英語を話す機会

したがって外国人との交際が広くて、日本美術の講義を聴きにくるグループがいくつもあり、母(姑)は母で、訪ねてくる外国人が絶えませんでした。嫁である私はそのつどお茶を出したり、美術品を運んだりして父を手伝い、母のティーパーティでは裏方として三十人分くらいのサンドイッチを作ったり、呼び出されていろいろな方を紹介されたりしたものですから、ちょっとした話も交わさざるをえなくなるのでした。それは私の務めでもありましたが、また楽しみでもありました。のちに母が脳溢血で倒れたあと、しばらくは若いころ身についた英語でないと話ができにくくなくなり、お手伝いとの会話が困難で、私が通訳的な存在となって、何とかしのいだ時期もありました。その後、母は亡くなり、アメリカとの戦争に突入、ズボンは長袴、シャツは儒祥、パーマまで電髪などと、何でも日本語で言わねばならない時代になって、英語とは絶縁の状態となりました。やがて終戦となり、連合軍の進駐でふたたび英語は花盛りとなりました。黒田が理化学研究所で研究していましたので、進駐軍の科学担当の方々がつぎつぎと訪ねてこられ、友だちとして私の家にも遊びにいらっしゃいましたので、私も英語を話す機会が自然に多くなりました。